12人の怒れる男
2009/2/11
12
2007年,ロシア,160分
- 監督
- ニキータ・ミハルコフ
- 脚本
- ニキータ・ミハルコフ
- ヴラディミル・モイセイェンコ
- アレクサンドル・ノヴォトツキイ=ヴラソフ
- 撮影
- ヴラディスラフ・オペリヤンツ
- 音楽
- エドゥアルド・アルテミエフ
- 出演
- セルゲイ・マコヴェツキー
- ニキータ・ミハルコフ
- セルゲイ・ガルマッシュ
- ヴァレンティン・ガルト
- アレクセイ・ペトレンコ
- ユーリ・ストヤノフ
チェチェン人の少年が養父の元将校を殺したとされる裁判、検察は終身刑を求刑し、陪審員による審理が始まる。集まった12人の男たちは有罪で意見が一致しそうになるが、一人の男だけが無罪に票を投じる。他の11人は男に疑問を投げかけるが…
シドニー・ルメットの傑作『十二人の怒れる男』を現代ロシアを舞台にしてリメイク。場所と時代が変わったことによる背景の変化が面白い。
オリジナルのシドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』は間違いのない傑作だった。その作品をリメイクするというのはそうとうな覚悟がいることだが、チェチェンという現代ロシアの暗部をテーマにすることで社会派の作品となり、オリジナルとはまた違った形で意味のある映画になった。
少年の犯罪の態様はオリジナルと変わらない。少年が父親を殺し、証拠にはナイフがあり、階下の老人の証言と向かいに住む女性の目撃証言がある。弁護士はやる気がなく、陪審員の判断によって少年が最高刑(死刑が廃止されたため終身刑)になるかどうかが決まる。判事までもが女性の中、陪審員が全員男性で、しかも中年というのは偏りがありすぎ現実感がないが、オリジナルの設定を生かそうとする以上仕方のないこと出し、こういうある意味では権力を背負っていたり、社会を背負っていたりという世代の男性を描くことは社会を描く上で意味があるということだと思う。それによってリアリティは減じてしまうが、語っていることが重要なのであって、必ずしもリアリティは重要ではない。
そして、陪審員の展開も一人の男が無罪を主張しそれに少しずつ同調者が増えていくという展開も同じ。そして一人の男が強固に有罪を主張するというのも同じだ。しかし、この無罪を主張する男が他の男たちを引き込んでいく過程にあまり緊張感が感じられない。この男は挙げられた証拠や証言の不確かさによって他の人々を説得していくというよりは自分の身の上話なんかをして人の心を揺さぶる。そして無罪に傾いた人がひとりずつ身の上話のような話をして徐々に無罪だと考える人が増えてゆく。
この展開は現在のロシアが抱えるさまざまな問題や、そこに暮らす人々がどのような人々かを説明するには適しているが、有罪が無罪に変わるというサスペンスを期待するとまったくの拍子抜けだ。しかもその身の上話は延々と続く。これではオリジナルはまったく超えられやしないと思う。
しかし、終盤でオリジナルとは異なる展開を見せる。この異なる展開があるだろうという予感は作品の中盤くらいからあるのだが、それが実際におき、それこそがまさにこの作品が現代ロシアを舞台にしていることの意味なのだとわかる。まあ詳しいことは書かないが、現代ロシア社会というのは非常に複雑なものだということだ。だからこそこの少年が有罪か無罪かという判断もまた複雑なものになる。その部分は非常に面白いと思った。
オリジナルが完全に室内に限定されていたのに対し、この作品は監房での少年の姿や少年の回想(あるいは夢)もインサートされる。何度も繰り返される、死体が転がる雨の街を犬が歩くシーンなどは非常に効果的でこれはよかったと思うのだが、回想シーンが多すぎたという気はする。インサートは犬のシーンや監房の少年にとどめ、回想シーンは終盤にまとめてという構成にすれば陪審員室の話し合いの緊迫感も高まり、同時に最後に一気に社会的な意味が明らかになるという展開になったのではないかなどと考えてしまう。
やはり別の角度から作ったとしても、傑作のリメイクというのは難しいということだろう。