十二人の怒れる男
2009/2/9
12 Angry Men
1957年,アメリカ,95分
- 監督
- シドニー・ルメット
- 脚本
- レジナルド・ローズ
- 撮影
- ボリス・カウフマン
- 音楽
- ケニヨン・ホプキンス
- 出演
- ヘンリー・フォンダ
- リー・J・コッブ
- エド・べグリー
- マーティン・バルサム
- E・G・マーシャル
- ジャック・クラグマン
- ジョン・フィードラー
父親を殺した少年を裁く裁判、12人の陪審員達は有罪の場合少年が死刑になる可能性が高いことを予告され、話し合いに入る。状況から少年の有罪が明らかに見える事件に11人までが有罪に投票するが、ひとりだけが疑問がるとして無罪を主張する。そして議論が始まる。
もともとTV作品として作られたドラマを同じ脚本・監督で映画化した作品。これが劇場用映画デビューとなったシドニー・ルメットは高い評価を受けその後活躍する。
陪審員となった12人の男たちがただただ議論をする90分間、しかしこれは室内劇の最高傑作である思う。
設定は単純だ。有罪の可能性が限りなく高い18歳の少年の表決を陪審員が話し合う。11人は有罪に票を投じ、1人だけが無罪に評を投じる。その無罪に票を投じた男(ヘンリー・フォンダ)の疑問は検察が上げた証拠や証人の証言に疑問があるということだ。そして、そのあやふやな証拠や証人に対して徹底した反対尋問をしなかった弁護士にも疑問を投げかける。
他の陪審員達は最初は裁判であげられた証拠や証言から有罪と信じているが、無罪を主張する男の主張に耳を傾けるにつれ、徐々に「本当に有罪だろうか」という疑問に首をかしげるようになる。しかしその中でも強固に有罪を主張し続ける男達もいる。有罪と無罪の間でせめぎあう緊迫感はまさにサスペンスである。
ただし、陪審員が最終的に無罪に傾くであろうということは容易に見て取れる。それはヘンリー・フォンダ演じる男が冷静に理詰めで論を進めるのに対し、有罪を主張する男とたちの多くは印象や偏見で少年が有罪だと決め付けているからだ。有罪とは言い切れないという合理的な疑問がある以上無罪になるというなら、彼らが無罪に傾くのは時間の問題というわけだ。
この作品が面白いのは、12人それぞれに個性があり、それぞれが役割を果たしているという点だ。結論は有罪か無罪かという二者択一だが、同じ結果であっても考え方は人数分だけある。ナイターに行きたいがために結論を急ぐ男、とにかく偏見に凝り固まっている男、場の雰囲気を和ませたいだけの男、その12人の個性がぶつかって物語を作っていく、そこが面白いし、陪審員を描いたこの作品で非常に重要な点だ。
重要な点がもう一つ。それは人間は決して客観的にはなれないということだ。まったく知らない人間である被告人の罪を裁くときでも自分の生きている環境を引きずってしまう。たとえばその被告人が少年だったときに同じ年くらいの息子がいるとか、逆に被害者と同じような境遇の友人がいるとか、被告人のような不良少年にひどい目にあったことがあるとか、裁判と直接関係ないような経験が判断を左右したりするのだ。
それはシドニー・ルメットの映像にも表れる。それが決定的だったのは最後にひとり有罪の立場に残った男が追い詰められるシーンだ。そこでルメットは主観ショットを使い、彼の精神状態を表現する。そこで彼の有罪の判断というのが彼の心の深い部分とつながっているということを観客は理解するのだ。
それは仕方がないことだ。人間生きていればさまざまな経験をし、それが判断の基準となっている。だからそれぞれ判断が異なってくるのだ。その異なる判断基準を持つ人々が集まって話し合い決定する。そこが陪審員制度の重要な点だ。そしてこの作品が訴えているのはその点だ。
人を裁くのは難しい。あるいはひとりの人間がひとりの人間を裁くことなど決して出来ない。しかし、陪審員というのは人を裁くわけではない。陪審員というのはむしろ人を裁くシステムである裁判制度をさばいているのである。この作品で彼らが裁いたのは裁判制度の手ぬるさ、いい加減差である。彼らは少年が父親を殺したかどうかをさばいたわけではない。この手続きで少年が父親を殺したと判断する裁判を裁いたのだ。その点が重要なのではないか。
裁判員になったけれども裁く自信がないという人もこの映画を観れば勇気がわくのではないか。物を知らなくても、偏見を持っていても、人の言葉に耳を傾ける姿勢があればそれでいい。そのような人たちが集まってこそ合理的な判断が出来る。そんなことを思わせる作品だ。